鼠力機関

鼠くらいの精一杯の力でもろもろぶん回せたらいいのにねえ。

健康な人はいつだって傲慢

[垂れ流し]

2分の1成人式とかいう胸糞行事のニュースを見かけたのでもそもそ書いていくよ。

はてダに手を出したきっかけはこの記事でしたから、
この手合いのものを見るたびにヒステリー起こしたようにぶちまける癖、とまらない。

この「2分の1成人式」の記事に関するさまざまなコメントや貼られたリンクだのを逐一読み返したけれど、
私は私のされたことからしかものが見られないので、そこだけは失礼。


誰かを満足させるための強制、
それって虐待とそうかわらないんじゃないかな。

誰もが悲惨な家庭に育ってるわけじゃない、
むしろ2分の1成人式をおおらかに受け止められる家庭ばかりだからこその行事の成立であると理解している。
でも。
でも、それが当たり前だからこその取りこぼしもあると思う。

それは何の為のものなのか?
誰が誰のためにどうするのか? したいのか? しなきゃならないのか?

普通ってものを問い直すきっかけはあればあるだけいいと思うし、
考えることは思いやりとかそういうのにつながっていくこともあるだろう。
でも、考えもしないで提示された当たり前を飲み込むのは、必ずしもいいこととはいえない気がしている。


昔から親によく言われてたなあ。
「親の役に立たなければ家族じゃない。
お前は役に立たない。家族じゃない。」


世間様の当たり前を見るたびに、いつも手をあごにやって思い返してしまう。

私は、私自身を「サバイバー(生き抜いた被虐待児)」じゃないと思ってる。
幸か不幸か生き延びただけ。不幸かもしれない。死に損なってしまったからね。
できれば1秒でも早く死にたいと毎日考えている。


10歳の頃。
将来の夢はなかった。そこまで生きられると思ってなかった、いつか粗相をして処分されると思ってた。
こどもの頃の写真なんか1枚もない(親の職業が若干特殊だったせいもあるが)。
いつでも人目が怖かった。コミュニケーションってとれるものだと思ってなかった。なんでみんな親といつも楽しそうにしているのか不思議でしょうがなかった。

もうすぐ30を迎えようとしているけれど、
夜は眠れない。眠れたら眠れたで魘されて起きる。自分の声でだ。
電車乗ったらパニック起こすし仕事中もしょっちゅうめまいはするしたまに怒鳴ってる声さえ聞こえるし(幻聴なのかな)、大きな物音は怖いし、威圧されると身はすくむし、
なんでそもそも無理矢理にでも働けてるのか、自分だってわかってない。
(仕事できてるの、現実逃避なのかもしれない。自分の葬式代を貯めていつかひとりで死ぬんだ、その希望の為かもしれない。)


私は親が結婚する為に孕んだ子なので、
生まれた時点で「親の為に何かする」って目的は達したし、
生後はサンドバッグとしてなかなか優秀だったと思うよ。
もう充分したよ。役立ったと思うよ。
でも親はこどもを「自分の所有物」と考えているから、感謝って当たり前なんだね。


いやー生きづらいですね!相手してもらってるから感謝だ?
ドマゾ(っていうと語弊があるかもしれないけれど)じゃねえんだよこっちは!

ってようやく思えるようになったのも、
なんだかんだで無事生きながらえた結果、
この記事でいうところの8のステップまで進んだからではないかしら、と自負。

まあ今後親を許すとかそういうのは一切する気がありませんけれどね。
自由になって、許さないことをやっと選択できるようになったから。



2分の1成人式みたいに、
モデルを与えて考える経験なしにそれに沿わせるのは、そりゃあすごく楽だし心配もないだろう。
でも考える経験を拭ってしまったら、どうしてそれが大切なのかなんて気がつくわけもない。

かといって、よんどころない事情を抱えた親や子のことも考えてよ! だけじゃなし。

感謝っていうきれいな言葉の表だけ見ていては、なんの教育にもならんのじゃないでしょうかね。
前回の記事でも述べたけれど、人はそれぞれ人であって、欲求を満たす概念ではない。
無自覚に賛成反対もいわないでとりあえず隣の人の話を聞く、それが出来たらこんなことにはならなかったんだと思うよ。